0.はじめに

-無農薬を目指してやる中ではいろんな問題が起きてくるはずだ。問題が起きれば、生半可な考えでやっておれば必ずそやつは挫折する。我々はいろんな問題が起きても、そやつに一生懸命立ち向かわなければいかん。立ち向かえば、その被害も最小限に食い止められると私は思う。こやつをどげんかせんばいかんと一生懸命になって、みかん園に行く。良くせんばいかんという心構えであれば最小限の被害で食い止められる。もちろん私の所にも病害虫の被害は出る。出るが、やっぱりみかん園に行くことによって、樹を観察することによってその被害を食い止める。そしたら広がらん。そやつも一つの熱である。常にみかん園には主人の足跡が無ければいけない-

1980年代、甘夏園から望む茂道湾。

発足当初の会長である井川太二さんの言葉です。私たち「生産者グループきばる」は、熊本県南端の水俣、芦北、そして海を10キロ隔てた対岸の御所浦島で、甘夏みかんを栽培しています。なぜ甘夏を栽培するようになったのか、そのきばるの歴史を見ていただくことで、現在の私たちの甘夏栽培に対する姿勢を理解していただければ、ありがたく思います。

きばるのことを知ってください!


1.甘夏みかんのこと

1932年頃、大分県津久見市で夏みかんの枝変わり(突然変異の一種)として発見されました。 最初の発見者は園主ではなく、カラスと近在の子どもたちだったといいます。熊本県には1950(昭和25)年に導入され、1956年より奨励品種となり急増しました。
甘夏は夏みかんより酸抜けが早く、早くから食べられる、いわば早生夏みかんです。樹姿・花・果実の外観など、夏みかんと区別するのは難しく、栽培に当たっては、果実が樹上で越冬しなければならないため年平均気温16.5度、冬季最低気温が氷点下3度を下回らないことが条件になります。水俣・芦北地域沿岸はリアス式海岸で、年平均気温が16.5度を上回り、低温の心配もない、晩柑類の適地です。海岸から500m以内に園地があり、海風と太陽の恩恵を最大限に受け取ることができます。
甘夏は「捨てるところがない」と言われる柑橘で、生食はもちろん、果汁はジュース・各種料理やお菓子の材料にと、幅広く使えます。果皮はマーマレードやピールに最適で、また香りがよいので乾燥させて入浴剤としても楽しめます。種や内袋にはペクチンが多く含まれ、これを抽出してマーマレード作りに用いたり、アルコールに浸して化粧水代わりにすることもできます。
あまなつ、というと甘いイメージが先行します。確かに夏みかんよりは格段に甘いのですが、それでも現在のみかんの流行から比べれば、かなり酸っぱいみかんです。ただ、酸味と苦味、そして甘味がほどよくミックスされていることにこそ、食べてよし・加工してよしという甘夏の最大の特長があるのだとも言えます。

きばるについて
芦北町田浦にある、甘夏みかんの原木。熊本県は甘夏みかんの栽培が今なお多くの園で続けられています。
きばるについて
甘夏園の向こう側に、真っ青な不知火海(水俣湾)を望むことができます。それぞれの園に、ひとつひとつ違った風景があります。

<まとめ>

  1. 甘夏は夏みかんの枝代わりとして生まれました。
  2. 水俣・芦北は、甘夏を含む晩柑類栽培の適地です。
  3. 酸味と甘味のバランスが、甘夏の最大の魅力!

2.水俣病のこと

きばるについて
当時の百閒排水口のようす。今では近所の子どもたちが釣りをするようにもなりましたが、当時はここに舟を停泊させておくと、舟底に貝殻がつかない(※チッソ工場からの排水で死滅する)と言われていました。

水俣病は、工場排水に含まれたメチル水銀が海や川の魚介類を汚染し、それを食べた人が発症する公害病です。伝染性疾患ではありません。公式には1956(昭和31)年に最初の患者が確認されました。症状では特に手足や口の周りの感覚障害が特徴的(最近の知見によると「全身性感覚障害」といわれています)で、このほか運動失調、聴力障害、言語障害、視野狭窄など、外から見ただけでは判じ得ない症状も多数あります。根本的な治療法は未だ無く、主に対症療法やリハビリに頼って治療しています。
原因企業はチッソ水俣工場で、チッソは1932年から36年間にわたり工場排水をほぼ無処理で放出していました。日本国の経済的利益が優先される時代の流れの中で、行政もチッソも防止策を先延ばしにしました。その結果として、巨大な公害事件へと発展したのです。認定患者は2277名(うち生存者は415名、2015年9月時点)。しかし、実際には認定患者以外の「水俣病被害者」と呼ばれる人々が約4万5千人(2015年10月現在)もいるのです。国が実態調査を拒否しているため、患者・被害者の実数はいまだに不明です。

<まとめ>

  1. 水俣病は、原因がはっきりしている公害病であり、伝染性・遺伝性の疾患ではありません。
  2. 根本的治療法は未だにありません。また、被害の実態は完全に判明してはいません。

3.陸に上がる

-甘夏の導入、苦難の道のり-

当時、公害の被害を受けた家庭の多くは海辺に糧を求めて暮らしてきた漁民であったため、その中に水俣病を発症する人が多く出ました。同時にその原因である魚介類は、獲っても売れなくなりました。海で生計を立てることができなくなったとき、残された道は「陸に上がる」ことです。そして時期を同じくして登場してきたのが、甘夏みかんだったのです。現在甘夏を栽培しているきばるの人々は、このとき陸に上がった漁師たち、またその家族がほとんどです。
ただでさえ経済的に大変困窮していた状況の中、漁師から甘夏生産者への転換によって、さらなる苦労が積み重なりました。土地代や苗木代、農機具代から、実がなるまでの肥料、農薬、燃料代など、出費はどんどんかさみます。現金収入を得るために出稼ぎをし、戻ってきては山を切り拓いて苗木を植えるということの繰り返し、そんな年月が続きました。病気に侵された体にはこれだけでも大変でしたが、当時の農協指導による甘夏生産はまた、農薬散布や夏の過酷な労働の連続でもありました。農薬をまくうちに病気で倒れる人もいたのです。そうしていく中で、公害被害者でもある甘夏生産者が、農薬をかぶってさらに被害を受けながら作った生産物を、今度は消費者に食べさせる、農薬被害を広げてしまうという矛盾に気づくようになってきました。

きばるについて

<まとめ>

  1. 水俣病の被害に遭い、漁のできなくなった人々が、陸に上がり甘夏を育て始めました。
  2. 当時、甘夏づくりは過酷な労働の連続でした。
  3. さらに農薬を使うことで、被害者が加害者となる矛盾に気付き始めました。

4.産直開始、生産者団体の立ち上げ

1973年、水俣病事件第一次訴訟判決が確定しました。また、それ以前から多くの人々が、水俣に移り住むことで、あるいは水俣に居なくとも遠方よりカンパを送ってくれたりすることで、息の長い支援を続けてくれていました。こうした状況の中でごく自然に、患者の作ったものを支援者が売る・買うという、細々とした産直が生まれていきました。そこを手がかりに、私たちは1977年、現地の支援者団体である水俣病センター相思社を事務局とした「水俣病患者家庭果樹同志会」という甘夏生産者団体を発足させました。「被害者が加害者にならない」というスローガンを掲げた、甘夏の無農薬栽培への挑戦の始まりです。
年間15回も散布していた農薬を減らすことには、最初は不安がありました。近所の人たちも心配してくれたり、そんな作り方でみかんができるものかと笑ったりしていました。しかし、当初からやり取りをしていた生活クラブ生協との関係性の中で確かな産直を続け、また販路を拡大していくことで、ゆっくりと周囲からの評価は変わっていきました。農協出荷の園地でも「そんなやり方もあるとばいな」と納得し、中には農薬を減らし、除草剤をまかない人たちも出始めるようになりました。

きばるについて
同志会生産者の園にて援農。堆肥まきを手伝う人々。身体にこたえる労働には、若手の力が注ぎ込まれました。

<まとめ>

  1. 細々とした産直から、1977年に「患者家庭果樹同志会」が誕生しました。
  2. 同時にそれは、甘夏の無農薬栽培への挑戦のはじまりでした。
  3. 不安のつきまとう中でしたが、少しずつ状況は変化してゆきました。

5.拡大と問題

-美味しい甘夏を食べてもらいたい-

きばるについて
出荷のようす。ときに100箱以上も詰め込まねばならないことがあるため、家族総出で取り組みます。
きばるについて
園地の一斉見回りのようす。ふだんそれぞれの園で黙々と仕事をする生産者たちは、この機会を得て栽培についての疑問点や技術の伸ばし方などを喧々諤々、議論し合います。

会が発足して10年の間に販路は広がり続け、ピーク時には出荷量が900トンを超えました。しかし、販路が広がれば広がるほど、甘夏を買ってくれた人たちから、私たちの産直が持つ問題点を指摘されることになりました。水俣病患者の支援という大義名分に隠れて品質がおろそかになっているのではないか、というのがその第一のものでした。
これをきっかけに、会の改革が始まりました。各地域の生産委員会を強化して、摘果などの指導を徹底。使用する有機肥料も、肥料会社と相談して独自に開発したものへと切り替えました。また、農薬を減らすのならば、園の日常管理はなおのこと重要になります。無農薬栽培への挑戦と一言にいっても、容易なことではありません。散布数を減らして木の様子を見ながら、代替案を打つ。3歩進んで4歩下がるような日々の連続で、ほかの甘夏と比べて見栄えするようなものは中々できませんでした。ただ、問題が起これば農薬を減らしたせいにし、生産過程での自分たちの手落ちを自覚しないで、消費者にそれを押しつけて終わる。そんな甘えだけは取り払おう、買ってもらう人たちの気持ちになって、自信を持って勧められる甘夏を目指し続けようと、気を入れ直したのです。
その結果、現在に至るまでに、品質は飛躍的に向上したと自負しています。しかしもちろん、100%などとという達成率は存在しませんし、自負ばかりしていてはまた同じ過ちをくり返すことになります。今も昔も、目の前にあるのは無農薬栽培への、果てなく続く長い道です。その道を真正面から見据えて、今後も努力を続けていこうと思います。

<まとめ>

  1. 出荷量が増えていくにつれ、品質がおろそかになっていることが指摘されるようになりました。
  2. 自信を持ってお届けできるみかんを栽培するために気を入れなおし、会の改革に努めました。
  3. 挑戦と改革は、今も昔もこれからも、ずっと続いてゆきます。

6.同志会の解散と、きばるへの転換

販路の拡大に伴って、受けていた注文に応えることのできないという事態も発生するようになりました。生産量予測と実際が合っていればいいのですが、これが往々にしてズレることがあるのです。
1989年のことです。この年は実の生育が悪く、加えてカイヨウ病が多発したために、甘夏の収穫量が激減しました。注文の不足分に対応するべく、同志会の生産者以外から甘夏を入荷することが急きょ決まりました。しかしその一部に、会が基準にしていた農薬使用回数を超えるものが混じっており、その伝達が販売先へ行き届かなかったのです。これが新聞に取り上げられ、現地の事務局、また支援者であった相思社の責任が問われることとなりました。患者家庭果樹同志会は一時解散し、相思社で甘夏事務を担当していた職員は辞職。先の見えない状況が続きましたが、それでも何とか甘夏をつくり続けよう、そのための準備会を立ち上げようという動きが出始めます。事務局はみかん園という現場を、生産者は事務局の仕事の煩雑さを、お互いが理解し合っていなかったこと。それがために、結果的に消費者の皆様の信頼を損なうことになってしまったこと。これらの反省を踏まえ、新たなスタートを切ろうと心に決めました。
そして1990年、私たちは、辞職した相思社の職員によって立ち上げられた「ガイアみなまた」を事務局として、「生産者グループきばる」という名前で新たな生産者団体を組織したのです。当然のことながら、甘夏を買ってくださる方々との信頼関係もまた、ここから再び築いていくこととなりました。

年1月に発行する、きばるの甘夏販売案内。甘夏も生産者も、多くの変遷を経てきました。
年1月に発行する、きばるの甘夏販売案内。甘夏も生産者も、多くの変遷を経てきました。

<まとめ>

  1. 1989年、会の存続にかかわる重大な事件が起こりました。
  2. 私たちは消費者の皆さんの信頼を裏切ってしまいました。しかし、甘夏をつくり続けたいという気持ちは捨てられませんでした。
  3. 1990年、「きばる」という名前で私たちは再出発をしました。

7.新たな時代へ向けて

きばるとして再出発してから、それ以前のご縁を続けてくださる方々、また新たなご縁をいただきお付き合いさせていただく方々の支えによって、私たちは今も甘夏を栽培することができています。生産・販売は平均してだいたい300トン前後になりました。たくさん売ればいいというものでもありませんが、それでも一時期の出荷量からかなり落ち込んでしまっているのは、少し寂しくもあります。世の中の不景気を反映しているのかもしれません。柑橘の種類が多様化し、より甘く、むき易い品種へと消費者の好みが移っていく時代の流れもあります。
ただ、私たちの仕事はそれらの動向を憂うことではありません。台風や大雨、旱魃、寒害などの異常気象、後継者不足等諸問題、これらの現実に四苦八苦しながらひとつひとつ対応していくこと。美味しい甘夏を、たとえお客さんが最後の一人になっても届けること。何より、無農薬栽培への挑戦という道を通して、発足当初から持ち続けているスローガンを世に発信し続けること。
少し頑固なきばるですが、大事に育てた甘夏を次世代に伝えていきたい気持ちは人一倍です。失敗から学んだことを活かしながら、容易ではない道のりを、皆様とともに歩んでいけたら。そう思いながら今日もみかん園へと足を運びます。


おまけ

-次世代からひと言-

きばるについて

あまなつのうた

作詞:高倉鼓子、草児 作曲:吉田省吾

甘いだけじゃない人生は ちょっぴり泣いちゃうときもある
雨にぬれたら風に任せて 前を向いて歩いてゆくよ
甘いだけなら物足りない 苦くて酸っぱい味がいい
雨にぬれても風に揺れても 君のもとへと届けたい

あぁ夏が来れば思い出す あなたの名前思い出す
甘酸っぱい思い出と ほろ苦い思い出を
今すぐ僕のもとへ

(*サビ)甘夏をむこう 甘夏の向こう
指に力を込めて皮をひとつひとつ
甘夏を食べる 甘夏と食べる
僕らの明日はそこから始まる

手のひらのシワの数だけ ここで生きてきたのだから
雨にぬれても風に吹かれても この根はビクともしないさ
酸いも甘いも全部 ともに見てきたわけだから
雨にぬれたら風が吹いたら 手をつないでスキップしよう

ばあちゃんの腰は曲がってくる じいちゃんは入れ歯忘れる
時間はかかるかもしれない それでも残してくれたものを守りたい

(*サビ)繰り返し

はじめまして!

きばるの次世代を担う(と自分で勝手に思っています)新メンバーの、高倉鼓子です。2016年の1月から、きばるの高橋さんの園で一緒に作業をさせてもらっています。

私は水俣で生まれ、水俣で育ちました。両親は水俣病患者の支援のために水俣に移住し、その後ガイアみなまたという有限会社を立ち上げ、生産者グループきばるの事務局として働きながら水俣で生活をしてきました。
私が生まれたときから周りには甘夏園が広がっていましたが、高橋さんや私の両親たちがどうして「きばる」を運営しているのか、全く知らずに育ちました。

進学、就職のために水俣を出て初めて、自分がどういう環境で育ったのか、親のやってきたことが何だったのかを理解しました。
それからずっと、自分が水俣のためにできることは何だろうか?と問い続けてきたように思います。

「あまなつのうた」という歌があります。

私と兄が書いた詞に、友人である吉田省吾さんが曲をつけ、唄ってくれました。この歌は私の想いを気持ちよく表現してくれていると、我ながらそう思います。

次々と新しい品種が出てくる中で、どうして甘夏なの?と、聞かれることがあります。
なぜ甘夏にこだわるのか、甘夏に惹かれるのか、今なら胸を張って答えられそうです。甘夏が、私を育ててくれた。だから私は、

甘夏に恩返しがしたい。

そういう想いで甘夏に向き合っています。

私の夢は「甘夏の自然栽培」です。
無農薬・無肥料で甘夏を生産することができる技術を身に付けたら、コスト削減につなげることができるのではないか?農薬撒きや肥料撒きの作業の負担も減るのではないか?「大変そうだ」と思われている農業のハードルを、すこし下げることができるのではないか?そうすれば、若い人も農業に興味を示してくれるのではないか……
この夢の実現のためには、まず「やってみる」こと。ただそれだけです。それは甘夏を通して、自然の摂理を学ぶことでもあると思います。
こんなに面白い仕事が、あるでしょうか。
日々、そんな思いを巡らせつつ、ニヤニヤしながら作業をしているのです。

いつ叶うかはわかりませんが、偉大な先輩方がおっしゃるように「想像することは、実現できる」でしょう。きばるもそうやって、長い道のりを歩んできたのだと思います。
この歩みをさらに続けていくことが、私が水俣のためにできることだと、そう考えています。生温かい目で見守っていただけると、幸いです。